ProductDesignColumn 三原昌平


複数の方々よりのご要望により、本コラムとInstagramを2024年正月より細々ながら再開する予定です。
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清水千之助(1929-1987)先生への報告書

お礼も言わなければ、ね、人生。
こういうの珍しいネ。読み応え半端ない。(^^);

🔵お世話になった皆さんと師(敬称略)
Sennosuke Shimizu 清水千之助
デザイン学科教授
東京造形大学に在学中の恩師。自他共に認めるインダストリアルデザイン専攻の理論的な柱を担ってらして、デザインの実務的な側面からの座学と数理造形などの実習も含まれていた。私はご著書の中では「工業デザインの実務」が、清水先生のデザイナーに求める考え方を最も的確に表していると言える。デザインを始めると、どんな世界が待っているかを理論的に述べられている。結局、場当たり的念頭に入れて分析し、デザインに着手しなければならない。そんな主旨である。感覚的に流されがちなデザイナーを戒め、至る場面で論理的に考え理論立すること、に尽きる。だから、清水先生の理論で何がデザイン出来ると言うより、血となり肉となるのは、ここから考察されたデザイナーのアイデア、となるので、この起点から一歩踏み出せなかったデザイナーは「普通」で終わっている。睡魔に襲われる授業ながら終始笑顔で怒る姿は見た事がなかった。特定の仲間を作ったり覇権的な行動からは距離を置き、、、故に逆にお命を削ってしまった可能性が、何とも残念でならない。小生の活動の片鱗だけ知っていただいた事は嬉しい。三原昌平の血と肉の中に清水先生は生きている。

Toshiko Sato 佐藤敏子
小学校教師
福島県(現田村市)船引小学校一年生の担任でいらした。まだ、敗戦の世相が色濃く残っていて世相が貧しい中、幼稚園の存在すら知らずに入学。が、夏休み直前の予防接種で発病。人生で一番辛かった経験のなか、佐藤敏子先生の優しさを今でも鮮明に覚えている。組の名称は「あやめ組」。先生の手作りテキストの表紙は、その「あやめ」の群青色が鮮やかにプリントされていた。私は図体が大きいのに席は一番前で、その席から佐藤先生に質問した内容まで覚えている。スカートは同時珍しいキュロットで、校庭では必ず私の肩に手を掛けて皆んなで汽車ごっこをして貰った。クラス会では、よく私を褒めてくれた。「ノートが綺麗」とか「掃除が上手い」など、私はその気恥ずかしさとセットで佐藤先生から、自信を伝授されたように思う。ご存命であれば百歳か?お礼の気持ちをお伝え出来なかった。まだ私の肩には、あの時の感触が残っている。

Shiro Hayami 速水史朗
彫刻家
香川県で活躍する彫刻家。岐阜県の知事だった梶原拓さんの提唱で始まったオリベプロジェクト。想創塾の命名された企業実践セミナーでご一緒した。私より20才も年長とは思えない若々しさとエネルギッシュな創作意欲にはただただ驚くばかり。しかも、芸術家特有の他人を撥ね付けるような唯我独尊さは微塵も感じさせない理解力と温厚さ。人格と存在感に打ちのめされた尊敬すべきお方だった。出会いと言っては失礼になるが、とてもラッキーだった。生ある限り、私の目標とお手本は速水先生であり続けるだろう。

Takuya Yamamoto 山本卓弥
高校教師
大東文化大学第一高、二年生時の担任いただいた英語の先生だった。そもそも、この高校の二期生であり、とてもフレッシュさの中に変わったばかりの入試制度の混乱で多種多彩な生徒が集まっていた。山本先生も色々な意味でご苦労があったと推察する。と、私は夏休みの宿題レポートで頑張り過ぎて、確か80枚も書き上げてバテてしまい、始業早々肺炎になり数日、学校を休んだ。学校へ行って見ると山本先生が放課後、休んだ分の授業内容を補習していただき、強烈な思い出として残っている。しかし、先生の話のクライマックスは、それから35年後に起きた。福島県は県立美術館でクリエイターだけの展覧会を企画した。私は7名の内にプロダクトデザイナーとして選ばれ、案内状をご報告として先生にもお出しした。そこにはオープニングとして初日にトークショーが催される事が記載されていた。しかし、私は当時、町内会の役員として行けず、それを知らない先生が駆け付けてくれていたのである。「穴があったら入りたい」とは、この事だった。まさに「先生」の鑑である。

Kazuo Kamo 加茂和夫
写真家
同じく東京造形大学の一期生で、写真を専攻していた。卒業して6年経った時、渋谷は宇田川町の事務所を訪ねてくれた。その時に見せたのはステンレス製のデスクセットだった。すると数週間経った頃に「自分の営業写真にしたいので撮らせてくれ」という事で、出来上がった。ステンレスの冷たい感覚に、黒いプラスチックが乗ったデザイン。難しい撮影だと思うが、実に見事な写真で、以降、半世紀近く、全く古さを感じさせず手元にある。実質的に私にとっては最初の作品写真であり、とても貴重なものとなっている。

Masayuki Takahashi 高橋正之
同じく東京造形大学の同窓生で10回生以上の後輩になる。インダストリアルデザイン専攻なが、デジタル印刷、DTP研究の先駆者である事を偶然知り、最初に会ったのは2000年だったと記憶する。そして、リビングデザインセンターOZONEで開催する事になった「プロダクトデザインの思想」展に思い切って図録を用意したくなり、相談して快諾をいただいた。これは、後に正式に書籍として出版されたが、一貫して最後まで印刷データを作成して貰った。当時、DTPの解説本を複数出掛けて多忙を極めている中で、本当によく引き受けていただいたと思っている。私の人生の中で、最も厄介をかけた存在で、今も頭が下がる思いの人である。しかし、それにしてもお互い超多忙な中、よくあんな事が出来もんだと思う。

Ichiaki Sato 佐藤市秋
私は漆と言う素材の質感が使われている世界が「余りにも偏っている」と考え、その応用を心に秘めていた。社会人になって8年目、その話を池袋にあったデパートのスタッフに話して見たら「じゃあ」と教えてくれた漆器問屋を訪問した。企画書には「和食器」でない漆器の商品開発と記した。とても興味を持って貰い、同社の社長が代表を兼務していた秋田県は川連漆器のメーカーで作る事になった。佐藤市秋さんは、この会社を取り仕切っていた工場長。基本的に何も知らないに等しい私を心良く受け入れ指導してくれた。正直、「別の国の人かと思った」と後に吐露されたが、訳の分からない事ばかり言う私を辛坊強く、懐深く理解しようとする姿勢に随分と助けられた。素晴らしい人格者だった。

Kazumasa Nagai 永井一正
グラフィックデザイナー
美大受験勉強もしないで合格してしまった故に入学すると驚きの連続だった。その一つにグラフィックデザイナーの団体「日宣美」が主催する年一度の発表会があり、その中に永井一正さんの作品「LIFE成長の話」が日宣美会員賞を受賞されていた。もう衝撃の一言で、私は帰宅して、直ぐにご本人に感想文を書いて投函したのだった。すると、暫くして家に電話がかかってきて「試作刷り一枚あるので、職場まで取りに来てください」!となった。銀座の日本デザインセンター。貧乏な私は学生服。想像したよりコンパクトな永井室で、わ後は舞い上がって覚えていない。階段を駆け降り、とそこは地下だった。あれから57年、手元に大切に保管されている。それ以降、氏の若者を見る姿勢に幾度となく体感し、私も見習わなければと考え今日に至っている。しかし、ジャンルは違えど、私はいただいた作品を超えられず現在まで年齢を重ねてしまった。最後まで諦めず、この世界に少しでも貢献したいと思っている。

Hiroshi Miyayama 宮山 廣
元富双ゴム工業社長
私は雑貨デザインの道を選んで仕事をして見るとプラスチックを素材とする事が多く一回の成形で作れてしまう量を満たすことの難しさを知る事になる。では、「もっと数量が少なくても良い素材だたら良いのか」と考え、行き着いた一つにゴムがあった。都内にも幾つもゴム工場があり何社が図々しも訪ねたりしていた。で、1974年頃、黒川雅之さんデザインのGomシリーズを目をして衝撃を受けた。私は埼玉県蕨市の会社を訪問、出迎えてくれたのが宮山さんだった。偵察に来たに過ぎない私を丁寧に説明して、その真摯な態度に恐縮してしまった。そして、私がゴムを前提としたアイデアスケッチと似たような試作品で終わったサンプルまでご披露いただき、すっかりうちのめされたのだった。その後、同社の直接的なお仕事は縁が無かったが、部品供給として一方ならぬご尽力いただいた。私の人生では最高の技術力、最高の人格、誠意の人だった。


Shinichi Abiru 阿比留真一
メーカー開発技術者
あの時計のメーカーの。経営者との出会いは1975年が最初で一年後、小生提案主宰の「もう一つのインダストリアルデザイン」展に来場いただき、その主旨を話すと「じゃ、内で作りましょうか?」となった。メーカーに特にテーマとか企画はなく、私の案を基本に物事が進んだ。30人弱の町工場で、最初のデザイン案が出来たので見に行くと、、。所謂プロダクトの概念に疎い事が分かり、一品生産の複数型という構図で始めるしか無いと理解。極力、アッセンブリー(つまり、組立)が省ける範囲で新しい物を考案した。正直、意表を突くヒット商品が次々と誕生した。取り扱いも一流のショップや現場だった。喜び勇んでいたら、何とほとんどの商品に不良品を出してしまった。接着の不備、真っ直ぐ切断されていない、塗装技術のお粗末さなどなど。時に流通業社紹介し、時に下請け業社を見つけ出しデザイナーとして西走東奔の最中な上に、修理や補修までやらなければならない羽目になり、いやはや普通では想像した付かない事態から始まった。しかし、翌年にはデザイン商品の最高の物ばかり扱っている松屋銀座店や青山のハートアート時は大きな評判となり、家具のアルフレックスでも取り扱われ、散々、仲間から批判された考えが徐々に認められ始めたと自信が湧いて来たのだった。この流れの道筋が見え始め頃、阿比留さんが入社してきた。そして、1987年の渋谷ロフトが誕生した頃には販売量増大を見込めるようになり、金型投資にも躊躇ないデザインを考案。大袈裟に言えば時代の寵児のような存在になった。が、裏を返せば実際の責任者として試作、量産手配から生産管理まで見通して手掛けた負担は並大抵ではなかったと推察する。最悪のスタートから今では世界から「検索」される存在を築いた立役者だった。OEMまで入っている訳で、、。

Hidetaro Ozeki 尾関秀太郎
元株式会社オゼキ会長
有名なイサム・ノグチのAKARI。製造したのは岐阜市に構える岐阜提灯のオゼキである。50年代中頃から始まり、次第に独創性を発揮して提灯にモダニズムや侘び寂びを持ち込んだ功績は大きい。私も大学在学中にヤマギワで初めて目にして、その見たこともない美しさに圧倒せれた。買って帰ると、その歪んだヒゴに被せられた和紙の合わせ目は極端に狭く超一流品としての拘りがかんじられた。が、70年代に入っての新作は、提灯としての歪みが加わり、もはや名人芸の域にあった。あの数々を量産品として世に出した決断と技術力に驚嘆するしかなかった。大変なチャレンジングである。そして、私自身がヤマギワの仕事をするようになり、事あるごとに同社の話を伺う機会があり、これをやり遂げた人はどんな方なのだろうと思っていた。巡り合わせというか、岐阜県の仕事、オリベ塾は同社が最初であり、何と尾関(当時)社長のお声掛けだった。実に温厚で包容力があり、頭の低い謙虚なお人格者だったが、色々な場面で情熱的で、私は圧倒され続けたのだった。ある意味、日本のデザイン界のヒーローとも言える存在だったろう。

Shin Matsunaga 松永 真
グラフィックデザイナー
一番最初はグッドデザインの審査会で同席させていただいた。1988年。何時もにこやかで、フランクな印象。スターデザイナー独特のスタイルを持たず、ニュートラルにアプローチする。まかり間違うと「普通」の烙印を押されかねないので、範囲でを狭めない事は逆に勇気がいる。仕事としては小生企画の「プロダクトデザインの思想」のロゴマークについて名乗り出ていただき、恐れ多くもお願いしてしまった。想像もしないユニークなデザインをいただき、一連の「プロダクトデザインの思想」プロジェクトに厚みを得たと大変感謝している。私には大切な宝石のようならロゴであり続けている。

Motomi Kawakami 川上元美
プロダクトデザイナー
もう川上さんのようなデザインの質、量に加えてデザインに対する姿勢、人格、そして寛容と人格で実績を重ねるようなデザイナーが出てこないと思っている。独断で言えば、戦後は勝見勝さんが切り開き、亀倉雄策さんや田中一光さ、永井一正さんから「中心」をバトンタッチされた存在。デザインの実務だけでなく、様々なプロジェクトを切り盛りするストレスは並大抵のものではないと推察する。ご自身が色々な人に利用されている事は十分に認識されているのに、人に対する愚痴や悪口とは一番遠い距離にある。余りにも素晴らし過ぎる。私も多々お世話になり、ご厄介になり、酷い仕打ちにあっても川上さんにご理解で救われた人生だった。私の名前を知っていただいているだけで我が家の誇りに思える。

Masanori Umeda 梅田正徳
プロダクトデザイナー
1968年の第一回ブラウン賞を受賞されたデザインユニット「可動供給装置」はジャパンインテリア誌て知った。モデルだが、知れば知るほど、理解すればするほど、私には工業デザインの最高傑作と思えたし、今もそう確信している。応募したのは「10メートルにもなる図面でだつた」とご本人から伺った。狭いイタリア在住時代の住居空間を豊かにする為に折り畳まれたキッチンや浴室などのユニットは使用する時に広げられ、使った後は再び畳んで普段の空間に開放する。この機能主義一辺倒の知的な発想を、見事な造形力日本よって情緒さえ感じる豊かな道具を提唱して見せている。多くのデザイナーに知ってほしいデザインである。その後、帰国されてE、ソットサス率いるポストモダン運動「メンフィス」に参加、まるで別人のように180度違うテイストのデザインを展開されているが、これも勇気ある氏独特の創作力の延長線上にあり、実に味わい深いと敬服している。

Atsushi Shimada 嶋田 厚
東京造形大学教授 社会学
社会学を担当されていた。ロストウの経済学をベースに高度経済成長のプロセスや意味解いた。1960年代後半だから、イコール、当時の私達社会の理解に直結し、実にリアリティー豊かな解析が印象に残っている。2年前は姉妹校である桑澤デザイン研究所でも教授職にあり、赴任されたのは35才という若さだった。この辺り、卒業生から選ぼうとする現在の傾向とは随分と異なり適材適所の為には凡ゆるハードルを排除した創世記の姿勢に学ぶべきものがある。嶋田先生の授業は誰よりも熱心に受講したし、課題のレポートにも自信があった。教壇に提出に行くと「君か!三原君って」と言っていただいた。私は嶋田先生の優等生だった。

Makoto Komatsu 小松 誠
陶磁器デザイナー
1981年に吉祥寺で開催した「The椅子展」に前の職場の同僚で営業職に転じた友人が連れて来てくれたのが初対面だった。焼物→陶磁器→鋳込み成形と、一般の人達が考えるイメージとか随分と異なり、小松さんの場合は鋳込み成形によるデザイン。石膏が原型であり型。水分を吸着する性質を利用する、その原理の本質を手繰り寄せ見事にデザインしてしまったのが紙袋から型取りされたクリンクルシリーズだった。そこにあるのは、人の手で造形された世界ではなく、紙袋から転換された形。まぁ、びっくり仰天だった。が、「じゃ、俺も」と誰しもがトライしても魅力的な製品が出来る訳ではなく、成功したのは「小松誠」の研ぎ澄まされたセンスあっての事だったと思う。あれから40年、晩年は武蔵野美大の教授も務められ、品格ある作品は少しも輝きを失っていない。難しいプロダクトデザイナーの人生を見事に昇華されたお手本である。

Kazushi Suzuki 鈴木一司
東京造形大学同期生
超優秀な存在だった。美大受験勉強無しでラッキーにも合格してしまった私には一浪入学生で知識が豊富だったので、めちゃくちゃ眩しい級友だった。一つ頭が抜けた存在で、普段の課題作品から就職先、そして米国のアートセンターオブカレッジへの留学、卒業と雲の上の存在であり続けた。それは自他共に認められ、豊口先生が学長就任を祝うレセプションでは卒業生代表の挨拶は鈴木君だった事に現れている。在学中から彼を模して図面を描いたり、社会人になってからも壁にぶち当たると、彼だったら、どんな線を引くだろう、と想像してデザインしていた。横尾忠則さん、倉俣史朗さんを教えてくれたのも彼だった。私のデザイン人生の血となり肉となった、最初の根幹は彼から教わった。級友ながら、先生以上の先生だった。人柄も穏やかで、米国時代の友人や海外のデザイナーが来日すると必ず連れて来てくれた。お酒とたくさん飲んだ。何故か独身のまま、60才でこの世を去った。

Ken Okuyama 奥山清行
カーデザイナー
前世紀も終わろうとしていた時、突然「フェラーリをデザインする日本人」として一躍脚光を浴びた。私は願いは叶わなかったが、ある事を依頼する為に2007年の梅雨時にお会いした。もはやスターデザイナーの第一人者に相応しい風貌と会話力。以降、講演も何度も聴いたが、その話術で氏を超える人はいないかもしれない。武蔵野美大を卒業して、直ぐに渡米、アートセンターへ入学、今迄とは違いカーデザイナーを目指す。GMに入社すれば人生、大成功だろう。しかし彼の挑戦は止まず、何とドイツに渡りポルシェのデザインを実現させ、再び米国に戻って、今度はフェラーリのデザインで有名なカロッツエリア、ピニン・ファリーナのデザイナー募集に応募する。その独特なスケッチが評価され、応募者五百名から選ばれて渡伊、エンツォフェラーリのデザイナーに輝いているのは周知の通りだ。カーデザイナーを目指す若者はとてつもない目標が与えられた。その行動力、思考力、学習力、報道されたものを見ると上司として、経営者として、そのマネージメント力も卓越している。己のカーデザインを適えるまでの道のりと才能、努力が合わさって「Ken Okuyama」が出来上がっている。カーデザイナー志望の多くは単なるクルマ好きで終わる場合が圧倒的に多い。その真逆の厳しい修行を成し遂げた功績は燦然と輝いている。、

Hachiro Suzuki 鈴木八朗
電通アードディレクター
藝大卒のバリバリのエリートデザイナー。氏のお名前を最初に知ったのはアップルが日本でマッキントッシュを発売した際の一大キャンペーンで使用されたポスターや新聞の見開き広告だった。イラストレーターにはペーター佐藤さんを起用した見事なものだった。私は余りにも感動して、当時、赤坂にあったアップルコンピューター本社に図々し倉俣史朗広告の清刷りを貰いに行った程だった。それから5年間、六本木のAXISギャラリーでの発表が続き、何時も同じ人をお見掛けするので追い掛けて行ってご挨拶すると、何とその方が鈴木八朗さんだった!それから度々個展のご案内を頂戴し、超人気デザイナーとして女性画の見事な案内状を私は大切に保管してある。後日、そのアップルに纏わるエピソードが語られているのを読んだ事があるが、猛烈な勢いでスケジュールが流れていた事を知る。その中にあつまってもアードディレクターとして「素材」を探し求めて私の発表会へ足を運んでくれたものと理解した。あの温厚さの中に秘められた情熱。ものを創作する気高い基本の中に厳しさを教わった気がした。

Masahiro Mori 森 正洋
陶磁器デザイナー
この人の作品を一部を見て評論したりしか出来ない関係者はプロダクトデザインを全く理解出来ていないと思って間違いない。とにかく、中身が濃い。白山陶器とは表裏一体の関係で、森正洋の白山陶器であり、白山陶器の森正洋である。これを半世紀近く継続して見せた力量は並大抵な事ではない。他でも何度も書いたけど、大量にデザイナーを社会に投入しても、発注者がいないんだよね。せめで企画して発注すればグッドデザインの受賞者と認められるかも知れないが、、。そこを有名なデビー作であるG型醤油差しからその、原理を見抜いて関係を保って来た聡明さが下敷きになっている。似た活動をしたデザイナーはいても、ここまで完璧に成し遂げたデザイナーはいない。一品だけ似たものをデザインするのは容易いが、そこて断ち切れて、作品で終わっているようでは本来のデザイナー使命ではない。本当にお見事である。私は氏と接触する機会は少なかったが、よく活動を注視していただき賞賛して貰って事は何にも変えがたい励みだった。本当に嬉しかった。

Kyoko Masubuchi 増渕鏡子
福島県立美術館 学芸員
世紀を跨ごうとしていた2000年は、バブル経済崩壊の混乱と母の高齢化などの家庭問題などが重なり、人生の中で一番暗い気持ちになつていた。そこへ、私の生まれ故郷、福島県は県立美術館から連絡が入り、神奈川の自宅までお越しいただいたのが増渕さんだった。珍しい企画展「福島の新世代」展へのお誘いだった。正直、虐めや嫌がらせばかり受けていた時期なので、何より自信を取り戻す最高のチャンスを与えていただいたと思った。あの苦しい時期は、丁度インターネット時代が始まったばかりで、悪戦苦闘してプロダクトデザイナーでは真っ先にホームページを開設したり、今のSNSにあたるMLの運営などでも心血を注いでいた事が報われたし、何より持参された私の過去の功績の書類は自分自身が忘れていたことまで記載されており、暗い雲から一気に青空が広がった気持ちになった。手元にデザインした作品が全て揃ってなかったので、完璧ではなかったが自分なりに恩に報いるだけの展示は出来たと安堵している。心から感謝している。

Takenobu Igarashi 五十嵐威暢
アーティスト グラフィックデザイナー
3才しか歳が違わないのに、氏はサラブレッドのように疾走し、自分は亀のように鈍かった。特にニューヨーク近代美術館のカレンダーはとても有名で、存在感があった。初めてお会いしたのは、AXISギャラリーで発表会を開催している会場で、その気高い雰囲気に全ての事が納得出来た。その後、YMDプロジェクトを手掛けられ、素材が多種多様に展開され、衝撃的ニュースとなった。中でも山形鋳物で制作したデザインは着眼点が新鮮で、目から鱗に仕上がりが見事だった。「プロダクトデザインの思想」でも取り上げさせていただき、大変ご多用中に対応された姿勢に感激した。ファンが多いのも納得だ。外目には誰も五十嵐さんのように行きたいと思うだろう。しかし、「五十嵐威暢」を支えている力は甘っちょくない。その背景を知るだけで腰を抜かしてしまうほど凄い。やはり基本は発注と受注の構図にあることを氏は示してくれている。

Yuzo Iwano 岩野勇三
東京造形大学教授美術実習 彫刻家
入学して、自分の力不足、理解不足に一気にコンプレックスの塊になった。そりゃそうだ一緒に入学した学生に比べて美大の受験勉強もろくにしないし、そもそも高校時代には美術の科目が無かった。今考えたら、余りにも無謀だった。岩野先生の課題は軟質の石を削るというもの。始まって直ぐ、更に日にちが経てば経つほど自分が作ろうとしている形がお粗末の限りだった。仕方なく、私は授業開始時刻より早く行ってコツコツと削っていた。それを先生は目にとめてくれて、声を掛けていただいた。そして、遂に締め切りの期日がやって来て作品がズラリと並べられ、見窄らしい自分の作品は端っこに目立たぬように置いた。そして先生の講評が始まった。あー、ここから逃げ出したい、早く終わってほしい、、。遂に残酷にも自分の順番が回って来た。すると、、、「この作品は素晴らしい」!エッ!嘘でしょ?何かの間違い?と思って顔を上げると、間違いなく私の作品だった。エッー!何という奇跡だ!岩野先生が私を褒めている!私のコンプレックスは数ミリだけ自信に変わって行った。入学して初めて救わられた気持ちになった。

Seiji Nakagawa中川斉二
クラフト、家具デザイナー
デザイン研究会の最初の発表会場、クラフトデザインギャラリーでお世話になった。同ギャラリーは2021年に解散した日本クラフトデザイン協会の発表の場で、本来、外部の者に使わせる事はない。が、私が持参した企画書に目を通して「面白いネ」と許可をいただいた。このギャラリーを仕切っていた人だった。当時、研究会のメンバーは7名で、その後、中川さんの居住地であり、地元の木工グループの指導もされていた関係から、研究会のメンバーとの交流も図られた。デザインした物を作って発表する。この最低限の構図を中川さんから提供された形だった。以降、「木で作る生活展」、「マイお箱展」、「音の出る箱展」とグループ展を重ねた原動力の根幹だった。中川さんを思うと常に地方と中央、つまり東京の関係を考えてしまう。地方の地場産業とか手工芸は何時も中央の助けを頼りにする。しかし、その逆の話は聞いた事がない。地方の彼等は、どんな結果だろうと自らに記号を与えた試しがなく、身に纏っているのは中央からの情報である。この原理を理解した人達は物の動かし方も心得ている。色々な立場で東奔西走された中川さんのご苦労はまだ報われていない。

Yoshitada Yamaguchi 山口尚忠
元家具業界誌編集長 OZONE工房家具主宰
東京は晴海に国際展示場かあった、その至近距離に家具業界の常設場があり、同じ建物に山口さんが務められた業界誌の編集部があった。「ニューファニチャー」。1960年代終わりは執筆者が建築家は黒川紀章をはじめとし、家具デザイナーも剣持勇、渡辺力ら錚々たるメンバーが名を連ねていた。しかし、70年代に入ってドルショックが打撃となり、更に石油危機で混乱をきたし家具業界は下り坂を転げ落ちる。それでもバブル経済崩壊までは持ち堪え、氏の全国津々浦々まで築いたネットワークは大きな価値を持ち、90年代に入って誕生したリビングデザインセンターに開設した「工房家具」で花開いている。メーカーではなく、職人でもデザイナーでもない、工房という単位で情報発信して見せた技量に山口さんの歴史が生きていた。この間、新人にチャンスを与えたり、様々な業界にアドバイスされたり、記事にはならない功績は計り知れない。こんな私にまで目をかけていただき、ここでは書けない事柄に感謝しかない。多くの人がクロスするお仕事ばかりが山口尚忠さんを作り上げ、その山口さんが多くの人や物を形にしている陰の大御所だったと痛感する。※個人的には、お会いすると何時もデザイン界の疑問を話しするので、「じゃ、本に書いてみる?」と言われてニューファニチャー誌に「デザイナーズアイ」を一年間連載させていただいた。現物は残ってないが1981年だったと思う。

Akiyoshi Shimazoe 島添昭義
木工作家?肩書きが難しい
1980年、木のオモチャ「パカパカ」で時の人となった。様々な賞に加えてTV「徹子の部屋にも出演。類い稀なる認知度を誇り、独自の世界を作る。クラフトの世界や「遊び」のカテゴリーではグラフィックデザイナーの福田繁雄さんと並び称される存在。私自身、高額(確か10万円?)なパカパカを購入したほど、強烈な存在だった。お会いしてみると、日大の理工学部を卒業後、千葉大短期学部で木工を学び直している信念のようなものを感じさせる独特の空気感がある人柄。以降、半世紀近く、とにかく猛烈に多作である。それも、毎回テーマが異なり、同じレッテルを貼られるのを拒否するために創作していると思ってしまうほど違う。経済性の意味が整うの待つ自分のスタイルとはまるで正反対で、余りの自由奔放さに戸惑ってしまう。そんな島添さんに最も心打たれた話。それは原発事故が起きる20年ほど前、その原発に纏わる空間の仕事が打診されたそうで、当時はバブル経済崩壊で私達クリエイターは大変な状況にあり、普通だったら喉から手が出るほどの条件。それを島添さんは「断った」点に並々ならぬ博識と良識を感じたのだった。何時も何時もいただく個展の案内状は私のお宝となっている。

Minoru Sugahara 菅原 實
菅原工芸硝子社長
デザインの仕事として紹介され、経営者に会うまでに至る事例は少なかった。私に限らず多くのプロダクトデザイナーがそうだろう。同社は東京墨田区に本社を構え、千葉県九十九里町にあるメイン工場の責任者、工場長と呼ばれていた。1984年、紹介してくれたのは大阪のデザイン会社。「あまり、将来の見通しが良くない」という理由だったと記憶する。実際、マシンメイドではなく、職人によるハンドメイドは先進国としてコスト高で業界的にも劣勢だった。と言うのは一般論で、百人未満の従業員の小さなメーカーだからこその魅力はあるだろうと考えるのが三原式思考で、そこにピッタリ当て嵌まった。当時は創業者である会長に、その息子三人が社長、専務、常務という役職。が、次第に会社全体の動きは専務で工場長の菅原実(實)が取り仕切るようになり、私の発表することの重要性や企業イメージの大切の提案に傾聴していただき、地味な零細ガラスメーカーは、一気に業界の風雲児的な存在に駆け上がって行った。新しい企業ロゴデザインや、発表会のためのサブタイトルも採用され、インターネットもいち早く活用に着手している。とにか、次から次へと新しい事にチャレンジし、ネットワークも広げている。私の仕事先の中では断トツに抜きん出た仕事量を誇っているのは一重に實社長によるところが大きい。過去30年間で最も激変し会社のイメージを高揚させた功績は様々なジャンルのお手本になるものと思う。また、反対意見を上手に内政に取り込む術にも長けていた。

Fumiharu Koide 小出文春
新星冷蔵工業 総務部長
人生、努力しなければ成功しない。しかし、幾ら悪あがきしてもなるようにしかならない運命がある事も確かだ。自分の人生を振り返って、受験に失敗したり、就職でつまづいたり、思うようにならなかった事が山ほどある。けど、それは全て運命で、結局、良かった方に作用している事に気付かされる。その代表的な存在が小出文春さんだ。最初の就職先を卒業前に辞めてしまい、実質的に最初に勤めた30名程の会社の総務部長だった。最初に会社に行って見ると一階の事務室の片隅に設計課があり、係長が一名いるだけだった。辺りは薄暗く、製図板が置かれているだけで、惨めの極み。同期生は松下や日産、伊勢丹、サンヨーなどの立派な会社ばかり。ここで頑張るしかない。業務用の冷蔵冷凍庫や店舗に設備を提供する業態だったので、最初は建物の平面図に什器を書き込む仕事が多く、次に特注のステンレスケースの図面、やがて収める店の現場測量、と何でもやった。人手不足で製作する職人がやたらと威張っていた。考えて見ると社会の縮図で、色々なジャンルの人達と交わり、期待され、罵られ、騙されもして世間を学んだ。こんな中で、会社の金庫番であり、人事の総元締めであり、会社経営のナンバー3だった小出部長から何かに付けて温かい、そしてさり気なくご指導をいただいた。生意気で世間知らずの未熟そのものだった自分をまるで、その後の人生を導くかのように、、。それは社会道徳から男女の恋愛モラルにまで及び、しかし如何なる場面でもユーモアを失わない事。たった一年半弱しか籍を置かなかったのに、その間、私は絶大な影響を受けていた。今日あるのは、あの小出部長のお陰と感謝している。会社を離れる最後の日、近くの寿司店でご馳走になった事を昨日の事のように覚えている。

Yuichi Yamada 山田裕一
元デザインニュース編集長
私の最初のグッドデザインに選ばれたのはヤマト化工で作った温湿度計だった。メラミン樹脂を本体にして、赤や黄、白、黒があった。申請したのはメーカーなので、デザイナーの項目が不正確で、それで日本産業デザイン振興界で機関誌デザインニュースを担当していた山田さんから連絡を受けたのが始まり。1977年だったと記憶するが、では実際、訪問してみるかと、当時、東京は浜松町駅にあったオフィスを訪ねた。まだ始めたばかりの組織で、人脈も乏しかったので、重宝いただいた。同振興会は、その後民営化され、日本デザイン振興会と名称を変えたが、中心軸はその後も変化していない。変わらないのは、スタッフの中心軸も同じで、外側から見ると少々異様に感じる。見解が異なるからこそ意見を戦わせる価値がある。少なくても、私が信頼する山田さんと接触して来たのは、その部分であった。1984年には渋谷の事務所にも来て貰ったし、そこから離れて多摩ニュータウンに事務所を開設した際の集まりにも遠方より参加いただいた。リビングデザインセンターOZONEでのセミナーパネリストも快く受けて貰った事を今でも感謝している。控え目に考えても、私のデザインに対する考えはone of themであり、それは「プロダクトデザインの思想」に集約されている。私のone of them、山田裕一さんの配慮の数々を決して忘れない

Takami Ishii 石井尚美
ヤマギワ開発部
PHランプやイサム・ノグチのAKARIを揃えた照明器具のヤマギワは私の青春時代の憧れだった。分厚いカタログにはハノーファーメッセのIF賞を受賞した本澤和雄や黒川雅之等の、同社の存在を象徴する作品が並べられ、強く心に焼きついた。とにかく敷居がやたらと高い印象は、マークをデザインした亀倉雄策さんを追悼するリクルート版の非売品「亀倉雄策」で代表だった小長谷兵五の語り口に表れている。1976年、デザイン研究会で発表した照明器具を売り込みに行った。とりつく島がない雰囲気の中、カウンター越しに立っていた若僧の私に奥の方から「どうされました?」と声をかけてくれたのが石井さんだった。後で振り返ると何の実績もない自称デザイナーの傍若無人な行動だった。が、お粗末でも試作品を持って行った事が幸いした。世の中にデザインの依頼という需要はない。つまり、デザインの発注が受注に繋がる確率を期待するより、デザイナーが意図する物を先に形にする事の重要性を行動した成果が出た事になる。ま、それにしても何者か分からない私に声をかけて貰った事は大きく人生を切り開いた結果となった。私は当時29才。


Toyokazu Sugiura 杉浦豊和
株式会社セラミックジャパン創業者
懐の深い人だった。世の中、製造業と販売業。生産地と消費地。つまり、作る側と売る側に分かれ、その関係は取り引きでしか繋がらない場合が多い。愛知県瀬戸は全国屈指の陶磁器産地ながら、地元に篭って作り続けるスタイルを見事に打破して見せたのが知る人ぞ知るセラミックジャパンの杉浦さんだった。栄木正敏や小松誠などのデザイナーにも恵まれ、やがて松屋銀座や柳宗理らのネットワークも手中にする、謂わば産地問屋としての活路に産地と小売業の双方が活気付いた。一度、お近付きに肖ろうと瀬戸をお訪ねしたが、拍子抜けするほど小さな会社だった。逆にここから有名なセラミックジャパンの情報が発信されているのかと大いに勇気付けられた。1978年。酒豪でもあり、最初に上京される際に連絡をいただいたのは1983年だったと記憶する。以降、年に数回はお酒をご一緒したり、色々な場面でご厄介になり、OEMとして醤油刺しを作って貰った事もあった。批判精神が旺盛ない割にネットワークが広がったのは、杉浦さんの朗らかで尖ってない、鈍感とも言える性格に依る所が大きい。数少ない、真の意味での国井喜太郎受賞者だった。ファンが多かった。

Kyoko Kumai 熊井恭子
テキスタイルデザイナー
金属糸?ステンレスワイヤー?最初に見た時の衝撃が忘れられない。この世の物とは思えないほど美しかった。見た事のない美だった。従来の糸を編んり染めたりさするテキスタイルデザインをやめて、細い針金を編む事にチャレンジする。それを行動に移す勇気に敬服してしていた。そんな熊井さんと、私は面識がなく、雲の上の存在だった。で、1988年、東京は六本木のAXISギャラリーで2回目の津軽塗の発表会を開催していたら「皆が三原さん、三原さんって言うのできました」!ビックリ仰天した。まさか、当時は大分県在住で、仮に上京時に寄っていただいたとしても恐れが多い、この上ない喜びたった。作品も、作品展示も、そしてお人柄も飾り気の無いストレートさが熊井さんの作品アピールを更に強いものにしている。私は条件が揃って初めて創作に着手出来るので、熊井さんのようなエネルギッシュな活動はとても出来ない。どうやって作るのか、作った作品の保管方法は?は、と並大抵では無いパワーあって熊井恭子さんが存在しているのだ。無鉄砲なようで、美大の教壇にも立った緻密な熊井さんを心から尊敬している。

Enzo Mari エンゾ・マリ
デザイナー
過去、最高のデザイナーをあげる場合、この人の名前は最有力かもしれない。自由さに溢れたポスターから緻密な卓上用品まで、氏の作風から商品性を拒絶した純粋さで溢れている。よって、時には生産性が度外視され、事例のない製法にチャレンジし、おおよそ考えた事もないような発想でデザインが施される姿がある。ファインアートとグラフィックデザイン、プロダクトデザインの垣根は取り払われ、物はどうあるべきかが導かれる。まるで哲学者か詩人が物について語るように。日本の物を売るためのデザインにドップリと浸っている人は何事か?と思うだろう。氏自身が過去の日本文化に傾倒したからこそ、その変容ぶりや、デザイナーの振る舞いを厳しく批判した記事を読み、私はすっかり惚れ込んでしまった。岐阜県のオリベ塾では氏の招聘を推薦し、隣席でお話を伺う貴重な経験をした。その時は有名なブランドのプロジェクトの会合を終えた直後で、怒り心頭だったが、その理由は普通の良心的デザイン関係者でも理解出来まい。デザイナーの社会使命やデザイナーがデザインする姿勢はエンゾ・マリ氏のデザインの世界とは真逆であり、氏が戦い挑んでいるのは私達だったのである。

Kazuko Sato 佐藤和子
デザインジャーナリスト
イタリアのデザインに精通し、特にポストモダンのデザイン解説については世界的に著名な存在である。私は社会人になって商業主義的デザインを批判して、異端の道を歩んで来た。意外にもシンプルモダンはマイナーな存在であり続け、フリーランスのプロダクトデザイナーとしての個性だった。しかし、11年後の無印良品の登場で私の役割や立場は急激に変化しまった。そんな時勢に刺激を受けたのが1970年代中盤から始まったラディカルデザイン運動であり、アルキミアやメンフィスだった。極論すれば産業追随の目標から離れ、米国のニューシネマのように不真面目な美。プロフェッショナルデザインではなく、モデル、モディラー文化ならではの一品作品は情報発信のバリューとしては十分だった。私はこの流れを工業に翻訳しようと思った。渋谷の事務所を離れ、多摩ニュータウンで作った事務所名はラジカルデザインスタジオとしたほどだった。そして、何より佐藤和子さんがイタリアから発信してくれた情報がバイブルになった。ソットサスやメンディーニが生で、まるで隣に座っているかの錯覚を覚えるほど、、。そう導いてくれた佐藤和子さんは私の神だった。最初にお会いしたのは、そうした諸々の実践が意外にも成功しだ5年後の事で、デザイン誌の対談の場面だった。厳しいお人柄は、実は優しい視点で溢れ、だからこそ真実のデザイン評論が書けるのだと思った。佐藤さんと同時代を生きる事は自分自身に理念と信念が必要になる。曖昧な態度では一刀両断で切り捨てられる。誤魔化すことが不可能な、私にとってはダイヤモンドのような位置にあると言っても過言でない。

Akira Sawaoka 澤岡 昭
大同大学 学長
人とは違う考えを持ち、人とは違う道を歩むと多くの人は嘲笑する。作品が新聞に載ったり、専門誌で紹介されても、基本は変わらなかった。それが、一応開拓して成功すると、今度は模した業態が生まれ、そちらが賞賛され、道を開いた私は逆に隅を追いやられかねない立場になる。これは40才過ぎても、50才になっても変わらなかった。が、世紀が変わり、55才に近付くと、今度は途端にいろな話を頂戴するようになった。人間、辛抱だ。当時。岐阜県に単身赴任の身だった私は58才から就かなければならない仕事があり、そんな折に大同大学からプロダクトデザイン専攻新設の相談があり、出向いて見ると澤岡学長はじめ理事が待っておられた。まさか、後日、私に教員の採用依頼が回って来るとは夢にも思わなかったが、結果的に時間切れで承諾するしかなくなった。それから3ヶ月で准教授や客員教授を選び、開設時における設備の構想や技術員の選任までやり繰りする事になった。後で振り返ると、物凄い運命のようだったし、人の人生の妙をこれと言うほど思い知らされた、まるで事件だった。澤岡学長はJAXAの澤岡でも有名で、その宇宙愛は度々出演されてれるTV番組でも度々お見掛けする。学長職が如何に過酷で緊張を強いられるお仕事か。教授会の見事な議長としての仕切り。5年間の在籍中に感じ入った。

Yasuo Satomi 里見靖男
デザイン界の隠れた風雲児
私の人生で出会った最も素晴らしい人の一人。あら会社のデザイン依頼の打診があり、行って見ると里見さんも外部ブレーンとして招かれ同席したのが始まりだった。さいしょの頃は販売の為のスタッフと説明されていたので、よく意見が衝突した。激しい議論になった事もある。暫くして、親族が旅行代理店を営んでいて、海外旅行に精通可能な立場を利用、何とデザイン視察や有名デザイナーとの接触を得手としている事が分かった。デザイン専門教育は受けていないのに、その全体の掌握力は凄まじく。また日本では話題にもなっていないデザイナーや発表活動に着目して日本に導いている実績は、本当に隠れた功労者だと声高に叫びたい心境になる。中でもローボルトハロゲン照明で数々の名作を誕生させたインゴ・マーラー氏との結びつきは強く、日本での展開は里見さんを抜きに語れないだろう。ヨーロッパやアメリカを駆け巡った際の数々のエピソードは物語り性に溢れている。スナップ写真も猛烈ない数量。何度も何度も本に残してくれるよう依頼するも、何故か受諾していただけなかった。里見さんからプレゼントされたポストモダンなボールペンは今も最高の宝物。親兄弟以上に色々ご心配いただいたことは生涯忘れられない。神保町の交差点でバッタリインゴマーラーさんと里見さんに出くわし、記念写真撮って貰ったのに失くしてしまい恥ずかしい。里見さんは私にとって永遠です。

Eiji Hayashi 林 英次
元AXIS編集長
肩書きだけではイメージ出来ない氏のポテンシャル、微に入り細に入り、目の前のデザインを瞬時に解読して見せる能力はデザイン界の大御所と称されるに相応しいものがあった。1986年にアップルのマッキントッシュを使ったスケッチ展開催の挨拶に川崎和男さんに連れられて伺ってのが最初で、何と!エレベーターの出口前でお待ちいただいていた。まさかの礼儀に圧倒され、打ち合わせに入っても身が入らず呆然と時間が過ぎて行った。その後、事あるごとにAXISギャラリーで発表会を重ねた。漆やガラス、鋳物、時計、、。理由は厳しくても、林英次見解を拝聴出来る事が私には至上の価値だった為であり、その数回の一言一句を正確に記憶している。本当に「目から鱗」とは林さんのお話で、雲の上の人であり続けた存在だった。また、何かにつけて必ずお手紙等でご報告する習慣にしていたが、その報告内容についての感想とかご意見を決まってお昼時間にFAXいただいた。その事だけで、普段どれほど仕事が出来る人なのかが想像出来て身震いした。私の人生における大切な、大切な、何にも変えがたい貴重なり記録として全て保管させて頂いている。勝手に、人生の、デザインの師匠と思っている。

Mitsumasa Fujitsuka 藤塚光政
デザイン、建築写真家
JAPAN INTERIOR DESIGN誌をはじめ、長年この業界で写真を撮られているので、見方が非常にに厳しい。初めて森山和彦エディター室に呼ばれて取材対象の時計とテープカッターを差し出した。すると、待ち構えていたのは写真の白鳥美雄さんと藤塚さん。特に藤塚さんがテープカッターを肩の高さまで持ち上げてぐるぐる回し、撮影アングルを探った。咄嗟の、その行動に仰天した。それから10年ほど経ち、ある編集者に開発中の津軽塗を見せたら、「ん〜、これは撮影が難しそう、、、藤塚さんに相談されたは如何?」。という事、以降、面識がなかったので鈴木紀慶さんの紹介して貰ったのが始まり。藤塚さんの名言に、「写真が写実でリアリティーがある筈がないよ」がある。その逆は「写真の使命は観念的で情緒的に撮る」ということ。その通りで、実にデザインした物のハートや雰囲気を映し出すの長けている。デザイナーの意図したものを抜け出して独自の美を切り拓き、その写真はデザイナーの作品写真ではなく、藤塚光政さんの作品になってしまう。言葉や文章の達人でもあるけど、駆け引きや取り引きがさり気なく長けている。この人と出会うと写真だけに留まらず、その何倍にもなって返って来る学びの人だった。幅広いジャンルの人達に一目置かれているのは間違いではなく、藤塚さんの底知れない勲章である。

Katsuya Matsuzaki 松崎捷也
株式会社深山 創業者
岐阜県瑞浪市で美濃焼を営み、社歴は40年。製法は鋳込で、業界的には新参の部類だろう。経営として、「柔よく剛を制す」という言葉を思い出す。それを象徴するのが20年余前に始めたデザインの内政化だ。殆ど、地元の多治見陶磁器研究所の出身。その若いクリエイターを採用し、才能を見抜き、自社マークからCI計画まで任せてしまう度量にはビックリする。勿論、才能や個性が豊かで、センスにも恵まれているが、やはり、これも経営者の手腕で、全国の小規模メーカーも是非とも参考にして貰いたい。私は2005年にオリベ熟講座でお付き合いいただいたが、たった数年間で、その路線は確固たる宮山スタイルとして、地元では異彩を放っていた。大きな方向性を示し、後は若い者の才能とヤル気に委ねる。簡単なようで、なかなか出来ないが、色々な企業、経営者と接して松崎捷也元社長の洞察力は並外れたものと映った。

Naoki Sato somewhere 佐藤直樹
リユースショップ経営者
肩書きは私流の表現なので、お許しを。簡単に言うと過去の廃盤商品からデザイン製法の高い物をコレクションしてギャラリーとして展示販売している。今回、お名前を上げさせて頂いた方々は何れも「面識がある」ことを条件にしているが、考えたら佐藤さんとはお会いしていなかった。1980年代中盤で休刊になったJAPAN INTERIOR DESIGN の編集長、森山和彦さんが亡くなった事を5年も経って知り、告知を兼ねて同誌の専用サイトを立ち上げた。すると、何と!一週間もしない内に佐藤さんからメールが入り、苦戦していたバックナンバーの表紙コピーを送っていただいた。何という善意と情熱!過去、このようなサポートをして貰った経験が殆ど無く、とても感激した。コレクションされている物は有名、無名を問わず独自性と希少価値に溢れている。JIDAのデザインミュージアムが健闘しているが、筋が通って、尚且つオーラ感に於いては国宝並みの価値に到達していると思う。何でも国とか公共機関がやると魅力に乏しいものになる、民間のパワーの素晴らしさを感じさせる。世界的に情報ネットワークを広げている佐藤さんの見識とセンスに大いに期待したい。

Kazuhiko Moriyama 森山和彦
元JAPAN INTERIOR DESIGN 編集長 
潔い編集のデザイン誌として信頼を集め、憧れの対象となり、デザイナーの目標となった。施主側もこの本に掲載されることを夢に見てデザイナーを選ぶ媒体でもあった。潔いことは、悪くないけど選ばれない事になり、少なからず差別感も共なう。でも、それは信念やポリシーを貫くには避けて通れない関門なので、多くのデザイナーは納得した。森山さんは尊敬を集めたのは確かだ。もし、弊害があったとしたらビジュアル誌故に徹底的に視覚が優先され、別のデザインの側面が蔑ろにされた、と言うと語弊があるが、焦点にされなかったことだろう。しかし、この中心だった倉俣史朗やイタリアのラディカルデザイン〜ポストモダンに繋がるデザイン潮流は上手に受け止めてたし、日本における情報発信の時空となった。忘れられないなぁ、スーパースタジオやジョエコロンボ、梅田正徳のブラウン賞ユニット。強烈たった。時は渡伊ブームであり、現地在住のデザイナーからの情報提供も大きかった。

Kuniaki Yasuma 安間邦昭
木工クラフトマン
大分県は日田市で活躍した元々グラフィックデザイナーで木工に転じた稀有なクラフトマン。身近で使えるモノを探索し、最初の手作り品を持って秋岡芳夫さんを訪ねる。それは、何とドクロが掘り込まれた木製スプーンだった(らしい)。勿論、それは否定されシンプルモダンなデザインの基本を説かれる。そこから安間さんのチャレンジは始まった。一品物ではなく、繰り返し生産が可能なこと。現在では、その安間さんが切り開い同じ類の商品は技術や形状も飛躍的に進歩を遂げているが、何しろ全くの素人で、しかも未開なジャンル。その試行錯誤はどれ程のものだったか、と思う。そして、1978年開催の世界クラフト会議京都で優秀賞に輝き、一世を風靡することになる。私も京都まで見に行ったが、安間さんの作品が一番輝いていた。あれが無かったら、かなり寂しいイベントだった気がする。その直度、日田の工房を訪問させていただいたし、何かにと交流が続き、驚くほど実直で地味なのて、私はもっと威張って欲しかった。木工カトラリーの開拓者として。私は生ある限り安間邦昭さんを讃え続けようと思っている。超真面目な安間さん、大好きだった。

Osamu Fujiki 藤木 修
Canon販売 アップル担当
言って良い事悪い事。書いてダメな事と書いてほしい事。藤木さんほど、それらがクロスしている存在は稀だろう。慶応大学卒の頭はキレっキレっで、コンピュータの世界に身を置くとどうなるか。1984年、注目のアップルコンピューターが日本に乗り込んで来た。まだ、創業して実質8年、飛び鳥落とす勢いで、旧来のアップルIIシリーズにマッキントッシュを揃えて来た。ここで、Macに移る前にゲーム資産などの豊富なアップルIIシリーズを紐解く「はじめてのあっぷる」をキヤノン販売発行という形で作り上げてしまう。たった1ヶ月だったと藤木さんは語っている。そして、それとは似ても似付かない壮絶なMac哲学に入り込んでいく。しかも、当然ながら交渉の舞台は米国で、出て来るのは鼻持ちならぬ生意気小僧のスティープジョブズだ。別の人が書いた物を読んだが、もう日本の物差しではストレス以外の何物でもなかったろうと想像する。しかし、その箇所については藤木さんから語られた事も書いた事も確認出来なかった。デザイナーの甘っちょい世渡りなど一蹴されてしまうだろう。気が付いた細かい事までFAXしてくれたり、資料を郵送していただりした。気遣いの物凄い人だった。猛烈なスピードでご自宅に英国式庭園を作ってしまったり、多彩を極めた藤木さん。余りにも突然の他界だった。

Kyo Toyoguchi 豊口 協
デザイン学科助教授 後の学長
父上が克平さん。まさにサラブレッド。教員就任時も若く、エリート感が溢れていた。時に厳し句、時に優しく。場面と相手(学生)の見分け方が瞬時で、一方食堂では食べながらお仕事をされていた。とにかく、仕事が早く、テキパキと片付け、人気がある故の人脈形成も見事で、自ら人を掻き分けて進むより自然と人に推されて地位が出来てしまう徳のある先生だった。私は逆で仕事はノロマで、人と衝突しがちで、自ら荒地に無謀にも何かを作るタイプなので、豊口先生が何時も輝いて見えた。また先生も私のノロマをよく理解されていて、だからこそ機会ある毎に感想文を寄せていただたり、色々な機関にご推薦いただいたりして、本当に恐縮ばかりだった。また、そんな先生の運命を考えた時、日本に居らずにイタリアにでもへ渡っていたら誰も成し得なかった物凄いスターデザイナーになったであろうと思う。(失礼?)日本は急ぎ過ぎて戦後復興に軸足を長く置き過ぎている。先生が歩んで来た超優等生路線ではなく、前後を弁えない不良デザイナーの道を歩む先生のお姿見たかった自分が居る。

Yoshio Akioka 秋岡芳夫
大学4年生になって、他のクラスメイトは就職がバタバタと決まり梅雨時に売れ残っていた2名に英語の神の村先生が紹介してくれたのがKAKだった。KAKは金子至、秋岡芳夫、河潤之介の頭文字をったデザイン事務所名で、数々の有名作品や多彩な活動で知られていた。行って見るとほぼ秋岡自邸の中にあり、小ざっぱりした出立ち。ご挨拶して最初は柴田さんとお話ししていたが、とにかく、仕事なのか遊びなのか目が回るほど年柄年中クリエティブな活動ぶりで過ごされている印象だった。終わりに秋岡さんに招かれ、面談見たいな空気になった。一際落ち着いた風貌で、当時49才で「実は昨日、◯◯◯◯の仕事を断って来た」!とさり気なく話し、外部のデザイン事務所が置かれている環境が変化している事を語っていた。ドキッ!だった。また、当時スタートしたばかりの「グループモノ・モノ」の話もされていたが、これは当時、全く理解出来なかった。懐が深く、何時も原点に戻る勇気があり、またその原点を模索出来る数少ない日本人デザイナーではなかろうか。秋岡さんの築いたネットワークと夢や理想。どれ程の人達が影響され、行動に移したから計り知れない。その秋岡さんが未熟で生意気な私のの理屈を長時間ご傾聴いただき、もてなしまでしていただいた事の恩、決して忘れられない。

Susumu Kitahara 北原 進
インテリアデザイナー
思わぬ大量の注文が舞い込み、琺瑯を裏打ちしたゴムの生産が間に合わず、軟質の塩化ビニールに変えた事が全ての失敗の始まりだった。超一流のインテリアデザイナー、現場は東京のど真ん中の銀座、有名ブランドの事務機器メーカーショールーム。真っ赤な琺瑯が輝く、、はずだったが、使用した接着剤は通用せず、剥がれてしまう。軟質の塩化ビニールは極く限られた接着剤しか受け入れない。ゴムとはまるで性質が異なる。(しかも、この失敗が更に続いた。)メーカーを余りにも安易に信じ過ぎた結果だった。が、「私は悪くない」とはとても言えない。あの恥ずかしさは一生ものだった。何とか収まって、北原さんが確認に来られた。帰り際に「もう懲り懲りだ!」と発せられ、悔しくて、申し訳なく、一睡も出来なかった。身体が壊れるほどやけ酒を飲んだ。丁度30才になった頃だった。それから13年経った時分、北原さんから一通の招待状が届いた。バブル絶頂期。東京は西新宿で手掛けられた現場のお披露目会だった。迷惑の上に泥まで塗って私に!何という度量の大きさか。しかも、「同伴者もどうぞ」とある。恐れ多くも行って見ると超有名デザイナーでごった返していた。北原さんのご挨拶が素晴らしかった。

Mitsuo Katsui 勝井三雄
グラフィックデザイナー
勝井先生は東京教育大学のご出身ながら、34才で東京造形大学の助教授だが、前年には、あの有名なペルソナ展に参加している。自転車で遊んでばかりいた私に、そんな事を知ることもなく、美大受験勉強もしないで、最初の東京造形大学を受験した。試験会場は渋谷の桑澤デザイン研究所。原宿駅を降りて向かうと初めて見る代々木競技場が圧倒的な迫力だった。悪夢は実技試験から始まった。周りの受験生の画力の凄さと速さ。うへぇ〜!なるほど、これが美大受験生か!と初めて現実を思い知らされた。「もう、これは合格は無理だ」と思った。面接官はお二人で、後から考えるとその一人に勝井先生がいた。「好きなデザイナーは誰ですか?」。誰も知らないので窓の外にそびえたっていた代々木競技場を見ながら「ハイ、丹下健三さんです」とか答えていた。勝井先生は、この冴えない私を終始ニコニコしながら眺めていた。しかし、気分は優れなかった。いよいよ合否発表の日が来た。同じ原宿駅を降りて足が重かった、、。で、合格掲示板を見ると、あったぁぁぁ〜!エッ嘘でしょ?と思った。「試験で敗れて、面接で拾われた」のか?それ以外考えられなかった。一度も勝井先生にはお礼を言う事も出来なかったが、亡くなる一年前だったか、ご病気の噂を聞き、手紙にしたためて自分の気持ちをお伝えしておいた。

Katsuhiko Aoki 青木克彦
工業デザイナー
自分は東京造形大学の一期生なので先輩がいない。だから、雑貨デザインを志してデザイン会社に入り、そこにいた青木さんが唯一の先輩になる。プラスチックのことは随分教わった。人との距離感とかクライアントとの打ち合わせの仕方、お見事だった。内でも外でも信頼された。スマートでハンサム、加えて桑澤デザイン研究所卒、と、モテまくり。加えて油壺に停泊するヨットの共同オーナーで、、もう何も言うことない雲の上の存在だった。ヨットに誘っていただいたし、結婚した際は立派なオーディオ・アンプを横浜から多摩ニュータウンまで届けてくれたりと、恐縮ばかりだった。デザイン研究会にも参加いただき、ま、私の訳の分からない理屈が耳障りだったものと思う。何処で知ったのか、私がデザインした物をたくさん購入されていた。穴があったら入りたい心境、恥ずかしかった。また、亡くなる1年半前に貴重な第一回モーターショーの図録を送っていただき、お礼に小生のエッチンググラスを進呈したのが最後になった。「ヨーロッパへ自転車ツアーに行く」に、油断していた。一連の行動は死期を悟った先輩の行動だったのだ。直接お礼を言う機会を失っていた。

Masayuki Kurokawa 黒川雅之
建築家、プロダクトデザイナー
単純に生産ロットが低い素材としてゴムに着目していたら、やたらと高尚なGomシリーズが登場してビックリした。建築家故の発想も然ることながら、「出来るだけ安く」考えてしまう工業デザイナーの悪癖から見ると冷たいくらいに美を追求している。その代表事例が製品への刻印。一般には出来上がった金型に後で彫り込むので、成形の際は、その部分が凸になる。出来たら凹にしたいが、その場合は順序が逆か、一旦攫ってから彫り込む事になり、面倒だし、効率が良いとは言えない。また、そんな些細なことに無頓着で事を進めているのが大半なので、そう説明したとしても「何が?」となるだろう。ベストセラーとなったステンレスを組み合わせた灰皿は卓上に置かれるので、余計に理にかなっているので当然視されるが、、。最初に見た時は大変衝撃を受けた。その他、黒川雅之語録が見事だった。「王様の椅子は何故あるのか」、「小さな世界を制した者が大きな世界を制する道である」、「自分を知ることが、社会を知ること」。私が事務所をお訪ねしたのは雑誌に寄稿した「自由人としてのデザイナー」だった。目から鱗だった。今日風に言えば「フリーランス」だ。マイナスの側面を考えたら悪い事ばかりだ。身分は定かでないし、信用もない。まるで駆け出しの芸能人、、、より悪く、そこにどんな意味を見出すべきなのかを問うといる。本来のデザイナー像って、そうじゃないかなぁ。厳しい船出に、あれ以上相応しい言葉はない。

Noboru Chiba 千葉 昇
グラスメイト
卒業して日立製作所に就職した。外見が整っていて隠れファンの多い「千葉チャン」だった。存在感とか人気度は私と比べるべくもなく、またオシャレだった。特に親しくはなかったが、4年生になると駒込が自宅の千葉ちゃんとは東武東上線の私は、池袋駅まで一緒で、電車の中でよく話し込んだ。話し込むというより、何時も一方的に私が喋りまくるパターンで、当時は話題にもならなかった工業デザインの役割りからLSIの持つ意味にまで及んだ。そして、何時も最後に「ショウヘイさんは凄いなぁ」だった。聴く耳持たない私は悪いヤツだった。理屈っぽいのに、劣等感の塊。あれこれ行動するのに無鉄砲。そこを見抜いてくれたのか、就職が唯一決まらない所為だったのか、最後の一年は私を褒めてばかりしてくれた。不思議なこと、あの帰りの電車の時間が無かったら、私は自分自身に自信が持てずに青春時代を終えていたかもしれない。豊口協先生の勝見勝賞受賞祝賀会の発起人の一人として千葉チャンに案内状を出した。ニコニコして会場に入って来て「ショウヘイさんが一番若いねー」とまた言ってくれた。その2ヶ月後、急逝してしまった。生涯で最もカッコいいのは「千葉チャン」だった。

Yoh Shoei 葉 祥栄
建築家
慶應大学卒とあるので、誰も建築学科と思ってしまうが、何と経済学部だ。とても厳しい、修行のような人生を歩んでおられる。RadicalとPrimitive。両方とも似た概念で原初的だが、急進的で破壊的な前者に対して、後者はあくまで整っていて品格や基本を重視する。1977年に完成した「インゴット」喫茶店。前年にはこれまた有名な「住吉の長屋」(安藤忠雄)が竣工しているが、閉じた感に対して金属の骨組みにガラスを貼り斜めに寝かせただけのミニマム建築は今でも葉祥栄さんの代表作の一つだろうと思う。現存せず、あの建築を語るに相応しい写真が残っていない事が悔やまれる。一連の作品は工事も簡単ではないが、倉俣史朗さんが求めるようなアクロバット性はなく、ここでも、あくまでもプリミティブである。比較的、中規模な大きさの建築が多かったのが幸いしたのか、物として頃合い理解しやすい。が、故にディテールもシビアになってしまう宿命がある。ここに様々な素材を駆使して一つの建築言語を築き上げた努力と弛まぬ情熱。建築家の生きたお手本!作品を模型にしたら、教材として抜群に重宝される気がする。

Sumio Katsuhara 且原純夫
デザイン批評(1966-70)発行編集員
編集員に粟津潔、泉真也、川添登、原広司、針生一郎と並んだ異色の存在。殆ど言葉だけが並ぶ異色のマガジン。何号か、横尾忠則デザインの過激な表紙があったりして、存在感があった。今、振り返ると、当時の私のこの本の内容についての理解は未熟そのものだった。なのに四年生の時の学園祭のクラス単位のテーマに「インダストリアルデザイン批判」を掲げて制作費の足しにするためA3二つ折りのパンフを作り、そこに広告欄を設け、何とその一社にデザイン批評の発行元、風土社に打診してしまった。あゝ恥ずかしい。伺うと小さな編集室。「元気だねー、君の大学は学園闘争とかないの?」、「ハイ、うちの大学はダメな奴ばかりで、、。「ハハハ、、あ、そう!笑」、と言って、当時の大卒初任給並みの三万円をくれた。めちゃくちゃ嬉しかった。他にも有名画材店など、合計11万五千円が集まった。ところが!あてにしていた学内にあったオフセット印刷機が上手く使えずに、悪戦苦闘の末にじもの印刷所に手配する事になった。今はデジタル印刷で安価だけど、あの頃は今の十倍近くとられた。オマケに、デザインデータの失敗箇所があり、私はご恩に報いることが出来ないバカヤローだった。どんな事をしてでも、お会いして気持ちをお伝えするべきだった。人として恥ずかしい三原だった。

Yoshio Shiratori 白鳥美雄
写真家
長年、藤塚さんとJAPAN INTERIOR DESIGNの写真を担当されてきた功績は大きい。私は一番最初にテープカッターとクロックを撮影していただいたが、振り返れば40年以上、あれに勝るクロックの写真は撮れていない。その3年後、椅子のグループ展の撮影もボランティア価格で引き受けていただいたり、私の椅子を再度撮り直しを切望されたりと、プロの写真家の姿勢を思いっきり見せつけられた。多くのインテリアデザイナーや建築家に慕われ、信頼され、尊敬される、本当に稀に見る存在である。一つ、エピソードを紹介すると、グループ展の椅子の撮影は12時間以上にも及んだ。時刻は23時に迫っていて、それを傍観するだけの出品者達。中には彼女を連れて来て我慢出来ずにイチャイチャのしまくる奴とか、自分の役目を心得ず、逆に文句を言う連中がいたり、、。そんな中、食事も休憩も取らず、黙々とカメラを覗く白鳥さん。私はその差をとても大きく感じたし、その後の其々の人生を語っていたように今、思う。シャープだなぁ、白鳥さん。

Kiyoshi Okada岡田清司
備前焼工房「土夢人」主宰
造形大学に在学中は何かと気が合った。後に小学校のPTAの会長にも推された、同期生では屈指の人物。専攻は室内建築。通称インテリアだったが、卒業手前で中退し岡山の地元に帰ってしまった。すると、直ぐに「焼き物を始めた」と年賀状に書いてあり彼らしいと安堵したが、確か翌々年に岡山駅に設置する岡本太郎の陶器壁画の製作を請け負い1972年に完成させている。山陽新幹線の開通に合わせた快挙だった。その後、「アトリエ土夢人」を立ち上げ、備前焼の制作の活動に入る。並大抵の努力ではない。私は博多までの新幹線に乗り途中下車して立ち寄ったり、東京で発表されたクラフトデザイン協会の図録を送ったり、ギャラリーに推薦したりと、自分の役目は何でもした。彼も上京する時は必ず連絡をくれたし、一緒に目的地まで案内した。お互い議論好きで、よく意見を戦わせた。合わないと、「ショウヘイ君は何時もそうだ!」と顔を曇られた。しかし、彼の存在感は人気者だったことで、岡山に帰ってからも地元の有志に度々話を聞かされた。また、クラス会では中退にも関わらず必ず呼ばれたし、同期の女子達が岡山までわざわざ駆け付けていた事実が判明してビックリだった。超立派な会社に入社して、何をやってるのかサッパリな連中とはまるで正反対だった。彼はクリエイティブな活動をする、人生の鏡だった。立派だった。

Keiichi Nishida 西田恵一
春慶塗木工工芸師
岐阜県オリベ塾講座を受講してもらった若手春慶塗グループの一員。もう少し早く出会っていたら、と悔やみたい。岐阜県の仕事を請けた一つにデザイナーの関与が確認出来ない「飛騨春慶塗」と接触して見たい気持ちがあった。2年目にそれが叶い、講座は地元、高山市内、それも其々仕事が終わった夜の7時からと条件は厳しかった。終わるのは22時過ぎで、そこから車で岐阜市まで戻って来る。特に冬の東海北陸自動車道は凍り付き、ひるがの高原までの恐ろしさって半端なかった。また、時には東京に帰らなければならない時は安房峠越えとなり、もはや死を覚悟しなければ挑めないほどだった。しかし、主役は私ではなく、工芸師達なので、春慶塗が社会のどの位置にあるのかを紐解いた。建築との関係、モダンデザインのと意味、工芸史で考えると、などなどである。春慶塗の広がりを期して。が、この世界には「伝統工芸師」という物差しがあり、活性化の妨げになっている場合がある。既に完成していると考えれば、デザインのよる応用とか変化は邪道ですらある。その潜在的葛藤は水面下でベテラン工芸師と間に存在し、西田さんを随分と悩ませたはず。が、ギリギリの所で上手く纏めてくれて、第一回の発表会を終えた。でも、一連の事業は県内産業の活性化であり、主役や決定権は彼等にある。最初の発表会で味わった快感が仇になり?二回目以降の継続は断念した。2006年。誠実でなければ務まらない伝統工芸師。その中に人としてのスマートで社会人としての常識が豊かな人だった。これけらの奮闘を祈ってます。

Koichi Ando 安東孝一
プロデューサー
アンドーギャラリー主宰
「PRODUCT DESIGN IN JAPAN」六耀社で選んでもらった。私が度々指摘する「社会に発注者が存在しない」故にこの世界へデビューして来た新人だった。か特に論文を示した訳ではなく、特定の機関から依頼された訳でもない。プロダクトデザインに精通し、指導する立場にもなかったけど、動物的な勘が働いたのか一大プロジェクトとしてやり遂げてしまった。何ということか。同じ「あんどう」の安藤忠雄「仕事を作る」とはこの事だ。新たに作るどころか、これだけ見事なプロダクトデザインの本ってなかなか無いし、当時に関係する各専門筋を嘲笑うかのようであった。この25年前に、グラフィックデザイン界に大きな影響を与えた「ペルソナ展」があった。メインは各人が持ち寄ったオリジナル制作のポスターだったのに対して、スモールプロダクトとは言え、全てクライアントのメーカーが作った製品が収録されている。私はこの違いに気付くべきであり、その概念は更新されるべきだと思っている。インゴマウラーやジムホールのシャパラル、Ken Okuyamaのように。厳しいが、私の人生の経験から、そう確信する。安東さん、次はそれで如何?

Michiko Akiba 秋葉美智子
元パルコ企画
仕事が出来る人、女性。1975年にデザイン研究会を立ち上げて5回目の発表会を椅子展とした。椅子だから小さなギャラリーでは難しい。いっそのこと参加人数を増やして公園のステージとかも考えたが、思い付いたのテナントショップに空きテナントがある事だった。まだ、デザインが出来上がっていない段階で、渋谷にあった事務所近くのパルコに相談に行って見た。敷居は高いけど、、。そこに登場したのが秋葉さんだった。何と、直ぐにOKをいただき、空いている場所まで見せてくれた。おいおい、こんな簡単でいいのか?と思ったが超美味い話になり、早速メンバーを集めて相談した。ところが、1ヶ月ほどして電話があり、テナントは埋まってしまったので渋谷店ではなく、吉祥寺店でどうか?となった。ま、仕方なく了解するしかなかった。此処までも読みが凄い秋葉さんだったが、ここからが本領発揮だった。「展示什器や飾りはパルコ側で作るので、図面を下さい」となった。打合せに行って見ると、そこにはパルコ出入りの施工業者がいて、簡単に言えばサービスさせられていたのだった。施工時には散々嫌味を言われたが、業者の愚痴としては真っ当だった。会場で「パネルディスカッションやりましょう」も秋葉さんの提案で、パネリストの予算も組んで貰っていた。そんな背景も知らず参加者の何とも気配りが出来ないというか、気が効かないというか、、。会場で写真を撮ってくれたのも秋葉さんだけだった。終わって、研究会は終わりにしようと決断した。参加メンバーはそんな苦労も知らず、それ以降もその位置から変わっていない。

Hidenori Aoki 青木秀憲
メタルワークAOKI主宰 現彫刻家
朱に交われば赤くなり、優秀な人と仕事をすればレベルが下がる事はない。子供達には学校の頃からクラストップと交流すること、仕事でも会社でも業界でも、トップを知らずして仕事をしてはならない、と説いた。グラフィックデザインでは亀倉雄策山脈が出来、インテリアでは剣持勇山脈の後、あっと言う間に倉俣史朗山が出現した。先輩達はそこを紐解いて、何故
後世に伝えようとしないのが残念でならない。1974年、青木さんのアトリエをお訪ねした。半地下みたいな場所が駐車場で、これだけでも凄いのに、そこから出て来るのは青いトライアンフのスポーツカーだった。只者ではない。入るといきなり、猛烈に喋りまくり、その殆どが世のデザイン批判だった。全てのモノに容赦なく、そして澱みなく言葉が出てくる。私は何も発する事なく時間が来てしまった。帰りに渡されたのが「metal work AOKI」のタイトルが付いた立派で美しいカタログであり、青木さんの作品集だった。斜めの蓋の付いた紙製の箱で、中には一枚一枚、手掛けられた建築家やデザイナーから依頼された金属製品の写真が納められていた。とても感動した。私の大切な物であり続けた。振り返って見ると、あのカタログを作品集と見た場合、あれを超えた物は無かった気がする。デザインしたのは倉俣史朗さんだったらしい。青木さんは後の私の人生に強烈なメッセージを残してくれた。

Masaki Morita 森田正樹
インテリアデザイナー
デザイナーって、権力を保持する為に新しい人を探したり褒めたりするけど、そこにあずかれないデザイナーは滅多に仲間を称賛していない。これは自己評価が高い職業柄もあり、下手すると唯我独尊の終着駅が待っていたりする。他人を気遣うなどもっての他なのだ。ある祝賀会を立ち上げ、少しでもご縁がある方々に参加を打診して、断られたのは一名のみで、会が成立した。後は協賛してくれる会社に法外なご支援をお願いして手作りの祝賀会とは思えない立派なセレモニーが完遂出来た。これは一見、私が纏めたように悟られない仕組みも作っていたので、大方の人は気付く事はなかったはずだった。森田さんとは、それまで縁が薄く殆どお付き合いがなかった。ところが、以降、度々ご自宅のホームパーティーに招かれ、しかし、当時はバブル経済に沸き、私の絶頂期でもあったので一度も伺う事は出来なかった。本当に申し訳なかった。ところが、不祥事も重なり、それから5年後に私は全てを失ってしまった。知らない所で噂が急激に広まり窮地に立たせられた。酷いもので、中にはわざわざ電話して来て嘲笑う者までいた。そうした時、連絡をしてくれたのが森田さんだった。噂を耳にしたのだろう。「三原さん、お手伝いしましょうか?(以降はマル秘)」溺れる者は藁をもつかむ、というが、私には森田さんの、その気遣う言葉だけで満たされた。本当に嬉しかった。後で知ったけど、逆に私を更に水に引きずりこもうとしていた人が数名もいた。何も彼等にとって、私は大恩人である筈なのに、、。溺れる犬は棒でたたく、とはこの事だ。森田さん、今どうされているかなぁ。あんな心優しい人はいなかった。私は森田さんに連絡が取れないでいる。

Naoki Sakai 坂井直樹
コンセプター
1987年、日産のパイクカーBe-1が登場。限定生産という事もあり人気が沸騰したら。時はバブル経済真っ只で、担当した坂井さんはその華やかな雰囲気もあって時代の寵児となった。坂井さんは私と同じ年齢。美大入学間もなく米国に渡り、タトウTシャツを企画して大ヒットする。しかし、1973年には帰国して有名なウォーターデザインを開設しているので行動が早い。実は渋谷区は南平台の一軒家豪邸をオフィスにされていたが、私も目と鼻の先のアパートを事務所にしていた時期があり、まさか、こんな凄い人が近くにいるとは想像も出来なかった。バブル後期に、ある知名度のあるスタジオが当時、活躍していた数名を呼んで座談会が催され、行ったらそこに坂井さんが居た。もう雰囲気を作るのに長けていて、最初から最後まで主役は坂井さんだった。後、小生監修の「プロダクトデザインの思想」でも、ご尽力ご協力頂き、とても感謝している。慶応大学でも教壇に立たれているが、教員として抜群の人気だったと伝え聞く。あれから35年以上経ち、「パイクカー」と言う概念や使われ方が混乱している。まず、日産自身が余計な触手を伸ばさずに後世に正しく伝えるよう心掛けてほしい事と、他の概念を「パイクカー」としてWikipediaなどを悪用している動きがある。日産は情報資産として、こうした動きにも対応して貰いたい。

Mikio Yokota 横田幹郎
インテリア企画会社社長
私の人生で失礼な事があったとしたら横田さんかもしれない。雑貨デザインを学ぶ為に2年間在籍した会社を辞めて、「もう少し、」という想いで確かアルバイトとして雇って貰った。ハウスメーカーのインテリアをベースに活動する業態で、一流を目指す意識が強く、通俗性に染まった前の会社とは正反対で、とても刺激的だった。イタリアの「Artemide」を知らなかったので、恥ずかしい体験をした。後で考えると、色々な人がここでクロスしていて、人生の妙を味わった。自分はインスピレーションは抜群なので、ソラリー社のパタパタ時計シフラ3の代理店を説き伏せ、同社に販売権を獲得させたのも私だった。が、時勢として所謂ドルショックが起きたばかりで、社会情勢がとても不安定、こんな時だからこそ、と渋谷に友人と事務所を構えた。その時、真っ先に仕事の依頼をしてくれたのが横田社長で、わざわざ事務所までご足労いただいた。既に他のデザイナーに委ねて、見通しが立っていなかった案件だったようで、私は1ヶ月で完成させ、日本デザインコミッティーの審査でも激賞されるデザインを実現した。それから一年が経ち、そのメーカーから直接連絡が入るようになり、、しかし、話の筋としては3社で協議するべき問題だった。片方の話だけで済ませてしまった私に非があったことは明らかだと思う。人生、一歩も、二歩も下がって礼を欠くことのないよう行動しなければ、と肝に銘じた経験だった。

Hiroshi Morishima 森島紘史
グラフィックデザイナー
WAGAMI、つまり和紙のデザイン開発で知られる事になった。和紙をワシとかWASHIとせずWAGAMIと称した点も森島さんのエスプリだろう。美大を卒業して直ぐに米国のアートセンターオブカレッジに留学。帰国後、日本デザインセンターへ勤務するエリートコースを歩む。そんな森島さんが、1981年、松屋銀座店のデザインギャラリーで、突然WAGAMIを発表する。スクリーンに絞ったテーマは会場にピッタリで、和紙が潜在的に持っているシンプルな空間性を見事に引き出して見せている。噂は一気に広まった。その後、AXISや和光などでの発表が続き氏の存在を決定的なものにしている。タイミング的に木曽漆器をベースにした株式会社ブシのスケール感とも重なり、同時代性も盛り上げる話題にもなった。まぁ、非常に珍しいサクセスストーリーだ。私は「プロダクトデザインの思想」にもご寄稿いただいたし、色々な展示イベントにご参加頂き、また原稿執筆時には資料を提供いただいた。煩い存在だったのでは?と反省している。けど、これほどの森島さんには謎が二つある。一つは作品よ写真に無頓着だったこと。それからインターネットを蔑ろにしていたのでは?と思ってしまうほど、ホームページやSNSを活用せれた形跡が見当たらない事である。私が見落としているとしたらお許しください。手練手管とか、スタンドプレーをしない実直さかもしれないけど、。

Koichi Hoshi 星 幸一
株式会社コサイン創業者
創業して30周年になるそうだ。北海道は旭川でオリジナル木工製品の開発、販売で独自の境地を作り上げた。その駆け出しの頃、山口尚忠さんからの打診で数名のデザインが集められ、デザイン案を提供したのが星社長との出会いだった。いわば、起業になるが、木工としての条件は恵まれていても、自然環境とか消費地から遠いハンディもある。どんな目標なのか、具体的には皆目分からずにスタートして最初のヒット商品とも言えるラックが誕生する。が、それが何と勘違いから作ってしまったラッキーデザインで、功を奏している。「木であることの素晴らしさ」。一大家具ブランドを築き上げたカンディハウスの長原社長の提案に見事に応えて木の新しいカテゴリーを確立した手腕は見事だと思う。ロゴデザインは五十嵐威暢さんが手直ししたものらしいけど、会社のイメージ、製品のイメージをとても都会的に纏め上げ、上手に一流感をアピールしている。星社長を含めて、全国的に珍しい爽やかで濁りがない爽やかさが素晴らしい。以前「褒め過ぎ」と星社長に言われたけど、アップルに匹敵する企業イメージを維持することは可能だと思

Yoko Asano 浅野陽子 
通訳
岐阜県オリベデザインセンター、オリベ塾は海外デザイナーを招聘していたが、その通訳として活躍されていた。リアルタイムでの通訳がとても早く、それだけでない、プロジェクトの全体に対する理解も深いので、とても仕事が出来る女性として印象に残った。こんな人、なかなかいない。岐阜県の役人に対して厳しく、それは側で見ていて微笑ましかった。(そりゃそうだ、この組織の責任者が私達デザイナーに客の送り迎えさせて、自分はスポーツカーで通勤してたからね、意識が低過ぎるんだよ。)15年前に、粗方オリベ関連は提唱者の梶原知事退任もあって店仕舞いしたが、そこからの活動が本当に浅野さんらしい。ボランティア活動にも汗を流し、アフリカへ出向いては支援活動にも勢力を注いでいる。同僚だった女性スタッフの中には華やかな活躍を成し遂げいる人がいる中、地道に堅実に活動している姿は、光り輝いている。きっと他に仲間だった女性達にも伝わっていると思うけど、同時にもっと積極的に活動を情報発信したら凄いことになると!皆、期待していると思う。

Hironori Yoshikawa 吉川博教
デザイン会社社長
1959年-京都市立美術大学卒、松下電器産業勤務、1970年-ワイエスデザイン設立。以降、特に関西地区のデザイナー重臣であり続けた実績と信頼の人である。私は氏が自社オリジナル開発の販売を東京を拠点として始める際に、前のデザイン会社の同僚だった男が営業担当する事になり、頻繁にアドバイスを求めてやって来た。で、「実は」となり、その男が吉川さんを渋谷の事務所に連れて来たのが最初だった。私は、デザイン会社に在籍していた時から、日曜日は雨が降らない限りは都心のデパートや専門店を半日掛けて巡回して勉強していた。5年間。高島屋、松屋銀座、伊東屋、伊勢丹、西武百貨店とのこの中から培ったものもある。この他にも、地方へ出張すれば必ず地元のデパートは見学したし、何処も事細かくメモを取っていた。だから、この男がやって来て最初の質問が余りにも荒唐無稽で馬鹿っぽかったので、東京のオフィスを訪ねて見ることにした。行って見るとベテランの彫刻上がりのデザイナーがいて、吉川さんの会社の業態も理解出来た。そこで、双方が旨みがあると思った某デパートのあるコーナーが向いているとアドバイスした。そこが思ってもみない場所や販売方法だったので大変評価していただき、事務所に来られたのだった。デザインの世界って、野性の王国サバンナである。デザイナーで立派な人だと称されている人が何人いるだろう。独立されて半世紀、吉川さんへの悪態とか悪評は聞いた事がない。何時も礼儀正しく、温厚で社会常識に長けている。虎やハイエナ、巨像、タヌキやキツネ、鼠や蛇もいる。その中が限りなく気高さを保っている姿を私は尊敬して止まない。

Hisatsugu Haneda 羽田久嗣
工業デザイナー 建築家 写真家
アーキストリアル主宰。多彩で独自の活動をしている。70年代の終わり頃、私が考案デザインした金属タイルの問い合わせで、渋谷は南平台の事務所から代官山のアーキストリアルまで徒歩で出向いたのが最初だった。考えて見ると代官山は猿楽町や青葉台と繋がり、南青山に匹敵するクリエティブで楽しいネットワークがあった。以降、私の発表展示会にも度々来てもらっていて、色々と情報も提供してくれた。しかし、90年代のバブル絶頂期、アッサリと米国に活動拠点を移してしまった。エッ?彼らしいと言えば彼らしい?独特の理論は横に置くとして、釣り具などのガジェットに走らない物作りは、名作の雲台などに共通する本物に対するアプローチが誠に素晴らしい。段階を踏んでという過程を経ずに、いきなり本題に入るタイプ。その代表作が雲台だろう。簡単にいうと軸と軸受が物理的に同じ値しか認めないコンセプト。つまり差がなく、ミクロの隙間もなく、そこにあるのは違う物質同士の当たり。この節度ない物に接すると、他はリスクを回避したブカブカの世界に思えてきてしまう。今も中古やオークションでも高値で取り引きされる。シビアな仕事をしている人達の着眼点は同じなんだと感じる。長年付き合って、陰のなく、とても個性的な好漢でもある。

Tetsuya Okada 岡田徹也
パルスデザイン主宰
間違いが多いデザイン記事。デザイナーは大量に量産されて社会や経済界に投入されているのに、それを紐解いたり文化として語れる人材が何処にいるのか?と思う。そもそも編集出来るから、その人が編集責任者、つまり編集長に座る構図に疑問が多い。イタリアの世界ナンバーワン建築デザイン誌「domus」が一番旬なクリエイターを編集長に据える歴史に学びたい。日本では総論も各論も全くもって無風地帯。専門誌、単行本、公的サイト。皆そう。微力ながら、少しでも、砂漠に雨を降らせたい心境で連載を担当させてもらった。連載は合計5つある。2回目が「icon」の「プロダクトデザインの思想」だった。1990年。デジタル印刷のはしりの頃。グラフ付き年表はMacで走るアルダス・ページメーカーを使った。作画して、とにかく遅い。誌面折り込みページでゆうに丸々一間週間。今だったら30分も掛からない。手元にある手書きの原本が恨めしかった。出来たものを都心の出力屋さんに持ち込んで、写真版みたいなモノが出来上がる。これだけの力作はデザイン誌では初めてだったはず。しかし、当初は全く反応も評価も無しだった。で、発売して一週間ほどしたら岡田さんから丁寧な手紙をいただいた。「久しぶりに新しい人が書いたモノを読みました」とあり、感想と賛辞、問題点や疑問点のご指摘か書いてあった。人を中傷する類の文面ではなく、全体に真摯に貫かれていた。とても嬉しく、感謝したい気持ちになった。さすが「日本の近代デザイン運動史(工芸財団)を纏められた方だ。少しは寝ずに書いた労が報われた気持ちになった。その他、デザイナーのUさんとか、Yさん、Eさん、Kさんからいただいた感想も記憶に残っている。初めて、本格的デザイン論旨を張ったつもりだっので、書く前、書いた後、出版された後の不安とストレスは忘れられない。

番外編
Naoyuki Ishii 石井直行
クラスメイト カーデザイナー
インダストリアルデザイン専攻の志望動機はカーデザイナーになることであり、私と一緒だった。身長もほぼ同じで、ただ彼の方が体力はあるし、遥かに学内で人気があった。街を二人で歩いていると、圧倒的に視線は彼に集まり、日本人離れした男らしい風貌だった。一緒に富士スピードウェイのインディアナポリスレースを見学した。モーターショーでホンダN360の後席に試乗した。が、彼は無事に自動車メーカーに入り薔薇色だったが、私は就職に失敗し、暗い学生生活の最後を送った。皆んなが集まった際に同情とか懸念の声ばかりだったが、石井君だけが「でもね、コイツは転んでもただ起きない奴だから、わかんねーよ」と言ってくれた。卒業して間もない夏休みには東北一周に誘ってくれた。3年目だったかフェアレディZを買って、私には異次元の世界にいる存在になっていた。その現実を直視すると、余りにも自分が惨めで、しかし、それは自分自身の知見で歩み始めた人生なので、後めたい気持ちだけはなかった。7年後、私の活躍は新聞に載る所まで上がり、横浜で二人で浴びるほどお酒を飲んだ。そして、それから5年後にはデパートで個展開催と進み、さらに、グッドデザインの審査員を務め、その3年後には彼の勤務する自動車メーカーのブレーンにまでなった。常勤には叶わないものの、石井君の気持ちが乗り移ったような気がした。それから、私は単身赴任が10年近く続き、疎遠になる内に彼は闘病生活に入っていた。私は知らなかった。訃報を聞いたのは名古屋だった。何と、最後に選んだ病院は私の自宅から数百メートルしか離れてない場所だった。純粋だった青春時代の時間を分け合った大切な友だった。何時も訳の分からない理屈ばかりを言って困らせた石井君には感謝してもしきれない。家族同士の行き来もあった。生きている時にお礼を言うべきだった。石井君、今までありがとう、と。